ある日の帰り道、会社の先輩が私に駆け寄って来るなりこう言った。
「ネイルアートはダメだから落としてきてね」
ああまたか、と思った。
私は接客も来客もない完全内勤の金融OL1年目である。秋にジョブローテーションの一環として社内でも比較的花形ポジションな部署に異動となったと同時に、その部署の先輩達にお伺いを立てた上で兼ねてから興味があったネイルを始めた。
そんな私に目を付けたのが前述した先輩だ。彼女は前部署での私のOJT担当であり、また勤続年数も長く揶揄する訳ではないが俗に言うお局様のようなオーラがある人だ。入社初日の日、彼女のオーラに圧倒されるどころか彼女の隣で怯えていた程である。
しかし同じ部署にいる時は特に大きな問題もなく、嫌われているだとか少なくとも私はそのようなことを感じたことはなかった。
だが部署を異動したことにより彼女が私に向ける目が変わった。
私が異動した部署はどういうわけか前部署とすこぶる仲が悪く、異動先の部署の仕事を下に見ている。後輩が嫌いな部署に異動して自分の下ではしていなかったネイルを始めたことが気の緩みと映ったのだろう。完全にマークされた。
勿論私も馬鹿ではないから規定内でネイルを楽しんでいた。色も肌馴染みの良いコーラルベージュやくすみピンクベージュのグラデや控えめにラメラインを入れた深めフレンチ。でも彼女のルールに反したようである。
ネイルをしたきっかけは2つある。1つ目は学生時代はバイト先の規定の関係でネイルが出来ず、ずっとジェルネイルに憧れがあったこと。2つ目は年末にあった好きなアイドルのコンサートだった。いつもはセルフで塗るだけだったが今回の年末年始休暇は長く、せっかくならこの機会にやってみようと思ったからである。初めてのジェルネイルは薄ピンクのグラデに花形になるように配置された小さなストーンが可愛いデザインでそれ以降はオフィス向けで楽しんでいた。女は爪が可愛いだけで心が躍る。
彼女は私に駆け寄ってネイルアートはダメだと言い去った後、ご丁寧にLINEまでしてきた。
詳細は省くが「好き勝手している先輩はいるけど…」や「私は立場上言わないといけない」に始まり、終いには「4月から新入社員じゃなくなるから立場が変わってくる」だのなんだの関係なさそうなことまで。
しかし私は彼女の文面に違和感を感じた。
何故なら彼女が1番社内で好き放題しているからである。
彼女はいつもミニスカートで、いつも強めの香水を纏い、見せたいのか知らないが割と胸元が開いた服を着ていて、上司に何か言われて機嫌が悪くなると不機嫌を前面に出し、そしてネイルをしている。勤続年数が長く、役職も付いていて誰も自分に指摘してこないことをいいことにやりたいようにやっている。それなのに“立場上言わないといけないから“、と私に言うのだ。
彼女がネイルも何もしていないのであれば私に言う筋はあるのかもしれないがしている人にそんなこと言われたくない。生意気だがどの口が言ってるんだろうかと思った。
もし私が真っ赤なネイルや立体感のあるパーツを付けていたり、大きな音を出しながらキーボードを叩いていたり、爪で誰かを傷つけたり、爪が引っかかり書類を破いてしまったり、来客から苦い顔をされたのであれば私に非があるとは思う。
でもそうじゃない。天秤にかけるのは違うかもしれないが、日々お客様と接する営業店の社員の方が余程派手なネイルをしている。私に言うなら営業店の社員1人1人にも言ってこいと思ったがぐっと堪えて飲み込んだ。
私のネイルを注視しているのは彼女だけであり、同じ部署の人達は私のネイルを見ても全然派手じゃないし規定内だから大丈夫だと言う。同じ部署の先輩がわざわざ総務部長に私のネイルを見せて確認してくれたが総務部長も全然派手じゃないと。
でも私が細心の注意を払ったネイルは会社の規定内であるが、彼女の規定外なのだ。
長さも気を付けて短めにして、色も代わり映えのない範囲で変えて、何も乗せずにやっているのに。殆ど来客や接客もなく、危害も加えていないし、もしかすると気付いていないだけかもしれないが迷惑もかけていない。
でもダメなのだ。どうやら私の爪の主導権は私ではなく、所属部の上司でもなく、誰も頼んでもいないのに勝手に風紀委員を務めている先輩にあるようだ。
その瞬間何かがぷつっと切れた。
元々熱望して入った会社じゃない。本当はもっと入りたい会社があったが入れなかった。でもいずれ転職するにもとりあえず働かないことには始まらないと思い、就職への気を失いつつも内定先の中で1番自分の時間を優先出来そうな今の会社を渋々選んだ。
例え理不尽な電話で客から怒鳴られ泣かされることがあっても爪を見て機嫌直してきた私にとっては本当元々転職したいのに余計辞めたくなった。なんならあの時今の会社じゃなく、ガッツリノルマがあるけれどネイルOKな大手金融営業職にすれば良かったとも思った。
この会社は、注意してきた彼女は、自分で自分の機嫌を直すことすら許してくれない。甘えてるとか呆れてもらっても結構だがなんて窮屈なんだと思った。平成も終わり令和だというのに。
やってられなくなった私は同じ部署の先輩にお酒と火鍋を片手にネイルのこと、それ以外の仕事のことを嘆いた。先輩には落とさなくていいよと言われたがあと少しすればまた平日がやってくる。一応買いたくもないネイル隠しも買ったが塗る気は起きない。でも出勤すれば彼女は私の爪に目を光らせるのだろう。
ああこのネイルどうしようかな。